2026/09/24 解決事例・コラム
健康経営に弁護士が必要な理由―安全配慮義務違反という経営リスク
1 健康経営が「経営課題」になった背景
日本は現在、世界でも類を見ない速度で高齢化が進んでいます。総人口は2008年をピークに減少局面に入り、2050年には約1億人にまで減少すると見込まれています。その一方で、65歳以上の労働力人口比率や就業率は年々増加しており、企業にとって高齢の従業員が長く安心して働ける環境を整えることは、避けて通れない経営課題になっています。
こうした変化に加えて、職場のメンタルヘルスをめぐる状況も無視できません。厚生労働省の統計によれば、精神障害を理由とする労災の請求件数・決定件数は長期的に増加傾向にあります。
出来事別の内訳からは、職場における人間関係や労務管理のあり方が、従業員の健康状態に直結していることがうかがえます。かつて従業員の健康管理は、福利厚生や個人の自己管理の範囲の問題として位置づけられがちでした。しかし現在では、従業員の健康状態の悪化が、生産性の低下(出勤していても本来の能力を発揮できないプレゼンティズム出勤はしているものの、心身の不調により本来のパフォーマンスを発揮できていない状態のこと。や、欠勤に至るアブセンティズム心身の不調により、欠勤や休職に至っている状態のこと。)を招くだけでなく、重大な労働災害や訴訟にまで発展しうるものとして捉えられるようになっています。健康管理を経営的な視点から戦略的に実践するという発想、いわゆる健康経営は、こうした認識の転換のうえに成り立っています。
2 放置すればどうなるか―安全配慮義務違反の法的リスク
使用者は、労働契約に伴い、労働者がその生命・身体等の安全を確保しつつ労働することができるよう、必要な配慮をするものとされています(労働契約法第5条(e-Gov法令検索))。これは単なる訓示規定ではなく、違反した場合には債務不履行または不法行為に基づく損害賠償責任につながりうる、実務上重い義務であると解されています。
この義務の重さは、実際の裁判例からもうかがうことができます。最高裁判決(平成12年3月24日、いわゆる電通事件、民集54巻3号1155頁)では、労働者が長時間にわたり業務に従事する状況が継続し、疲労や心理的負荷が過度に蓄積すると心身の健康を損なう危険があることは周知のところであるとしたうえで、使用者には、労働者に従事させる業務を管理するにあたり、疲労や心理的負荷が過度に蓄積して心身の健康を損なうことがないよう注意する義務があるとの判断が示されました。この事案では、差戻審において高額の和解が成立しています。
また、広島地裁判決(平成12年5月28日)では、従業員の様子に変化が見られた場合に、その心身の変調を疑い、同僚や家族に事情を聴取するなどの対応をとるべき義務があったにもかかわらず、これを怠ったとして、管理職を含む使用者側の安全配慮義務違反が認められ、高額の損害賠償が命じられました。この判決が示すのは、従業員の異変に「気づかなかった」こと自体が、義務違反として法的に評価されうるという点です。
さらに、大阪高裁判決(平成23年5月25日、いわゆる大庄ほか事件の控訴審、労働判例1033号24頁)では、入社から間もない従業員が長時間労働の末に急性の疾患で死亡した事案について、責任感のある誠実な経営者であれば、従業員の生命・健康という重要な利益を損なうことがないような体制を構築し、長時間勤務による過重労働を抑制する措置を講じる義務があることは自明であるとの判断が示されています。この判決は、経営者個人にも重い責任が及びうることを明確にしたものといえます。
これらの裁判例から読み取れるのは、次の3点です。
管理職や経営者個人にも、安全配慮義務違反の責任が及びうること。
「気づかなかった」という不作為も、義務違反として評価されうること。
従業員の健康を守る体制そのものを構築することが、経営者に求められる義務とされていること。
3 健康経営優良法人認定制度と、その先にあるもの
こうした流れを受けて、経済産業省は2016年度から「健康経営優良法人認定制度」を推進しています。特に優良な健康経営を実践している法人を「見える化」する制度で、大企業を対象とする大規模法人部門と、中小企業を対象とする中小規模法人部門の2部門があり、認定を受けると、従業員や求職者、金融機関など社内外からの信頼性向上につながるとされています。認定を受ける法人の数は年々増加しており、中小規模法人部門だけでも2万社を超える法人が認定を受けています。
もっとも、ここで注意したいのは、認定を取得することと、個々の労務管理における安全配慮義務違反のリスクが解消されることとは、別の問題であるという点です。認定要件には法令遵守・リスクマネジメントに関する自己申告の項目が含まれていますが、これはあくまで申請時点での確認にとどまり、日々変化する職場環境や個々の従業員の状況に応じた継続的な法的チェックを代替するものではありません。認定を受けていることが、個別の労働災害や訴訟のリスクを直接に減らすわけではない点は、経営者として理解しておく必要があります。
4 弁護士が労務顧問として果たす役割
それでは、こうしたリスクに対して、顧問弁護士は具体的にどのような役割を果たすことができるのでしょうか。主なものとして、次のような取り組みが挙げられます。
就業規則や36協定を含む労働時間管理の適法性を、日常的にチェックし、必要に応じて改定を支援します。
ハラスメントに関する相談窓口の整備や、相談があった際の対応フローづくりについて助言します。
メンタルヘルス不調の兆候が見られた従業員への対応、たとえば休職や復職の手続きについて、法的な観点から助言します。
万一労災や訴訟に至ってしまった場合の初期対応や証拠保全について、迅速に助言します。
危険予知という考え方は、労務の分野にもそのまま当てはまります。病気は初期の段階では発見しにくいものの、その分治療は容易であり、逆に症状が進行してしまうと、誰の目にも明らかになる一方で、治療は困難になります。組織における労務問題も同様で、深刻化してから対応するのではなく、問題が小さいうちに専門家の目を通しておくことが、結果的に経営を守ることにつながります。顧問弁護士は、こうした早期の相談・予防的な体制整備を継続的に支える存在です。
5 まとめ:経営者に求められる備え
先に紹介した大阪高裁判決が示すように、責任感のある誠実な経営者には、従業員の生命・健康という重要な利益を損なうことがない体制を構築する義務があると解されています。健康経営とは、従業員の健康を大切にするという理念にとどまらず、経営者自身と会社を法的リスクから守るための、具体的な経営判断であるといえます。
健康経営優良法人の認定を目指すこと自体は意義のある取り組みですが、それと並行して、日常的に労務管理の適法性をチェックし、問題の芽を早期に発見できる体制を整えておくことが重要です。顧問弁護士は、そのための最も実践的なパートナーの一つです。
6 よくある質問(FAQ)
使用者が労働契約に伴い、労働者の生命・身体等の安全を確保しつつ労働できるよう配慮すべき義務のことです(労働契約法第5条)。長時間労働対策やハラスメント防止、メンタルヘルスへの配慮なども、この義務の内容に含まれると解されています。
認定制度は、企業の健康経営への取り組みを対外的に「見える化」することを主な目的とするものであり、個々の労務管理の適法性を継続的に担保するものではありません。認定の有無にかかわらず、日常的な労務チェックは必要です。
問題が表面化してからではなく、就業規則の改定時や新しい働き方を導入する際など、日常的な場面から気軽に相談できる関係を築いておくことが望ましいといえます。
安全配慮義務は企業規模にかかわらず生じるものです。むしろ、社内に労務の専門知識を持つ担当者が少ない中小企業こそ、外部の専門家によるチェックの必要性が高いといえます。
専門家に相談したい方へ
安全配慮義務や健康経営に関するご相談は、弁護士法人市ヶ谷板橋法律事務所までお気軽にお問い合わせください。

